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王塚古墳(王塚台三丁目) |
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五世紀頃築造された明石川流域最大の前方後円墳で明石平野を支配した豪族の墓
全長百二米、前方幅三十五米、後円幅三十八米、高さ八米、周囲に濠を廻らし良く原形を保たれた古墳で、墳丘に埴輪列を有し、内部主体は竪穴式石室とみられる。
経塚(曙町)幣塚(王塚台四丁目)で王塚古墳群形成
日本書紀の推古天皇十一年の条に「秋七月辛丑の朔発卯に当麻皇子難波より発船す、時に従う妻舎人姫王赤石に薨せぬ。仍りて赤石の檜笠岡の上に葬る」とあることからこの古墳を舎人姫王のお墓とする伝説があり、陵墓参考地として指定、宮内庁が管理しています。
真の被葬者は、明石平野を支配した豪族であったと思われるが、この王塚古墳がある辺りは、かつて明石平野で米作りを行った人々の村を作られた吉田、片山に近く、王塚古墳に眠る被葬者は、あるいはこの土地に深い関わりを持つ人物であったかも知れない。 |
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播磨吉田遺跡(枝吉四丁目七) |
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昭和の始め、直良信夫先生が調査されて、木葉(もくよう)文を持つ土器が出土した事から、近畿地方最古の弥生時代前期前半の標式遺跡として全国的に知られる様になった。
遺跡は明石平野の西限を画する低い台地の東端にある。
通称城山と呼ばれるこの台地の一角は、中世に枝吉城が築かれた際大幅な変形を受け、弥生時代の遺構は殆んど破壊され、僅かに遺物の包含層を残すだけである。
しかし、近畿地方で、最初に稲作文化が定着した土地としての歴史的価値と、研究史上の意義は極めて大きい。 |
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枝吉城址(枝吉四丁目七) |
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| 枝吉城は、戦国騒乱の時代が幕を開ける1500年代中頃、明石郡大領の伝承を持つと言い伝えがある、明石氏によって築かれた城で、天正十三年(一五八五)の国替えで但馬豊岡城に移った六代目明石与四郎則実に変わり、最後の城主となった高山右近重友が、船上城を新たに築き移った事により廃城となり、枝吉城の歴史を閉じています。 |
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台地は、土地区画整備事業によりその大半が宅地化され、東端の一部が保存され、「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が建立され、この地の歴史の一ページを記念している。 |
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吉田南遺跡(森友一丁目六二) |
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吉田南遺跡は、明石平野のほぼ中央部を流れる明石川下流右岸の微高地(自然堤防上)に造営された弥生時代中頃より、鎌倉時代にかけての官衙跡です。
西環境センター建設時の発掘調査で発見された遺跡です。
出土品は環境センター展示室に展示されております。 |
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神本神社(枝吉四丁目七) |
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江戸時代初頭枝吉城主明石氏の居館跡に建立された氏神
| 創 建 |
元和七年二月(一六二一) |
| 祭 神 |
伊弉諾命。伊弉冊命。国常立命。大日霊売命。 |
| 境内社 |
稲荷社。猿田彦社。天神社。大神宮社。大歳社。 |
| 祭礼日 |
御湯祭 一月十三日。例大祭 十月 第二土曜日、日曜日。 |
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報恩寺(枝吉四丁目五二) |
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| 山 号 |
臨済宗 南江山報恩寺 妙心寺派末寺(禅宗) |
| 本 尊 |
地蔵菩薩 (達磨大師) (大権大師) |
| 開 基 |
桂岩和尚(桂巌祖香大禅師) |
| 建 立 |
室町前期 永享元年(一四二九) |
| 兼 帯 |
観音堂(山号 安楽山福蔵寺)
明石西国三十三ヶ所観音霊場十一番札所
明石西国八十八ヶ所霊場十六番札所 |
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常纂寺(枝吉四丁目四〇) |
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| 山 号 |
浄土宗 永金山常纂寺 知恩院派末寺 |
| 本 尊 |
阿弥陀如来 |
| 開 基 |
芸蓮社願誉上人林甫和尚 |
| 建 立 |
室町後期 慶長年間(一五九六〜一六一五) |
| 兼 帯 |
弁天堂 武州岩槻淨国恢誉瑩州上人 元文二年(一七三七)
弁財天(弘法大師作) 大黒天(伝教大師作) 多聞天(運慶作) |
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